「東京で出会った野宿者たち」 出口綾子
●隅田川 (一)
はじめてカメラを持って浅草の野宿者たちを訪ねたとき、「写真撮るならカネ払えよ。タダじゃ撮らせねえからな」と言われた。別にどうしても撮りたいわけではなかったので、「なら写真はいいです」と言った。その代わり、ビニールシートハウスで暮らす彼らとちょっとしゃべったり、大工仕事が始まったのでそれを見たりしたかった。しかし、「なんでアンタがここにいるんだ」「こんな所が楽しいか?」と、責めるふうでもないが、わたしのことを不思議そうに見ていた。
そこで、「たまに横浜の寿には行ったりするんですよ、家が近いもんで」などと話しかけたら、そのうち、自分は寿にいたことがあるというおっさんが現れ、はじめて笑顔がわく。そんなやりとりを見ていた野宿仲間の女性が、「大丈夫、あなたが写真撮れるように交渉してあげるから」とささやいた。そこまでしてくれなくてもいいのに、と思ったが、とにかく彼女が間に入ってくれる。「まぁ座れよ」。気づくと、わたしは彼らと小さな机を囲み、焼酎とケーキをごちそうになっている。「アタシの家はこっちなの。なか見てもいいわよ」。そこにいたオカマが言った。オカマの恋人は、ヘソだしのおっさんだった。
●隅田川 (二)
半年後に行ったら、メンバーはすっかり変わっていた。オカマとその恋人はいなかった。何人かのおっさんが、隅田川で小魚を釣っていた。何釣ってるんですか?ハゼだよ、天ぷらにするんだ。食うか? 悪いなと思いながらも、食べたかったので頂くことにする。焼酎を近所で買ってくる。天ぷらを揚げてくれたのは、以前に板前をやっていたというおしゃべり好きのおっさんだ。
メンバーは短期のうちに入れ替わるという。仕事があれば飯場に行くし、野宿する場所をほかに移すこともあるようだ。
その2週間後に再びそこを訪れたら、板前さんがいなかった。「イタさんはどうしたんですか」と聞くと、一同、急にきまずそうな雰囲気になる。一人の男性がうち明け始めた。「ほんの3日前にいなくなった。もうここには戻ってこないよ」。3日前の夜、イタさんのビニールシートハウスが火事になった。近所の仲間たちは大急ぎでかけつけ火を消し、イタさんも無事だったという。「いや、失敗なら人間だれでもあるんだ。おそらくタバコの不始末か何かだろう。それはいいんだ。でもよぉ、そいつ、何も言わずに逃げやがったんだ」。それがまずかったのだ。失敗をして仲間が助けてくれたら、誤り、礼を言う。それ以上の余計なことはいっさいいらない。謝ること、礼を言うこと。それはここで生きていく上での絶対のルールだ。わたしが撮ったイタさんの写真を、「これ、くれるよな」と低く言って、わたしの手から奪い取ってしまった。「戻ってきたらただじゃおかねえ。それがここの決まりだ」。わたしは写真を返してくれと言ったが、「ここのルールだ」でダメだ。しかし、おそらくイタさんが戻ってくることはないだろう。彼らは、掟の前で「絶対」になる。年輩の老人は敬い、たてる。年上の人に対する礼儀も、絶対だ。それは、単に掟を守っているというよりかは、彼らが自然にやっていることのようにも見えた。
●隅田川 (三)
あるとき、わたしがなついていたおっさんと二人で、ポラロイドカメラで写真を撮った。ゲラゲラ笑いながら、ツーショットだと言ってふざけて撮った。しかしそれが、一緒に暮らすその人の奥さん、順子さんの嫉妬を買ってしまった。彼女はわたしには何も言わなかったが、ダンナにその写真を破いてくれと言ったらしい。みんなで鍋をつついていると、突然ダンナが順子さんの頭を殴り、「おめーなんかいなくていい、くそババア!誰に食わせてもらってんだ」と罵倒し始めた。そのときは原因がわからなかったが、とにかくやめてくれと言った。しかし、ケンカはいっそう激しくなった。そのうち、黒い革ジャンに金のネックレスをした、先輩格の気だての良い、しかしいかにも強顔のおっさんが入ってきて「何やってんだよ、何があったんだ」と聞いた。
ダンナはさっきの、もうぐちゃぐちゃになってしまった写真を出し、「これがわりぃってんだ」と言った。わたしは、目の前のできごとの原因が自分にあったのかと驚いたが、冷静に、「順子さんそうだったの、ごめんね」と言った。ダンナの言い分はこうだ。イヤならイヤだと最初から言えばいい。でも、写真を撮ったとき喜んでシャッターを押したのは順子だ。あとになってからツベコベ言うんじゃない。そして口には出さなかったが、楽しく撮った写真を、客であるわたしの前で破くなどというのは失礼だ、ダンナはそこに怒ったんだと感じた。革ジャンの先輩は、「そりゃあ順子が悪い。だから順子が謝れ」ときっぱりと言った。乱れたままの髪で、涙を拭きながら「ごめんなさい」と頭を下げた。「これで終わりだ」。先輩は言った。そして、先輩は自然な雰囲気のなかで別の話題にもっていき、再び笑いが起きた。
そこでは、どんなに心を許しても、わたしは飽くまでも客だ。客に向かって失礼をやったり言ったりしてはいけない。その晩のできごとは、そんな彼らの掟も見たような思いだった。ダンナはわたしだけに向かって、「すんませんねえ、こんなとこ見せて」と謝った。
みんなで鍋をつついたそのハウスの家主は、仲間うちでももっとも高齢と思われる初老の人だ。結婚は?と聞くので、まだですと言うと、「夫婦なんてしょせん他人同士だ。本当にやりたいことを理解してくれる人を捜すのは、大変でしょうね」と言った。それからしばらくは、わたしの結婚相談に花が咲いた。
●山谷
ある冬の夕方、山谷を歩いているうち、路上で一人のおじさんの話を少し聞くことになった。九州出身の60前の人だった。飯場に入ってコンクリ打ちなどをしていたが、仕事が見つからなくなってからは収入がゼロで、いまは野宿だ。「家族に会いたい。家に帰りたいよ」。それだけが望みだというように、繰り返して言った。すると、突然そのうしろから、一人の男性が乗っていた自転車を降りて、「おめー何やってんだ、え?そこで何やってるか言え!」とわたしに向かって怒鳴った。まぁよくあることだと思いながら、いままで話していたおじさんに、困ったわねという目をしたら、彼はそそくさとその場を去ってしまった。わたしはその怒鳴っている男に向かって、「ちょっと話を聞いていたんです」と答え「先輩、アオカン(野宿)ですか?」などと話しかけてみた。少し精神障害があるかなと思われたが、そのうち優しい笑顔の混じった、しかし厳しい顔で路上の人を指し、「あの人たちはよぉ、いまじゃあんなにみじめに見えるかもしれねぇけど、30年前は闘ったんだよ、おれら一緒に闘ったんだよ、あの会館の前で。おれらの"先輩"なんだよ」と熱く語り始めた。しばらくずっと、同じ話の繰り返しだった。
とっぷりと日が暮れ、たき火をしていたおっさんたちに混じって、わたしも火にあたった。一緒に来たはずの友人たちはどこへ行ったのか、慣れない山谷でまったくわからなくなってしまった。でも、きっとこの近くだ、どうにかなるだろうと思っていた。すると「早く帰ったほうがいいよこんな恐ろしいところ。ここは恐ろしいところなんだ」と、通りがかりの人が吐き捨てるように言った。
火にあたりながら、一人の人にまた話しかけた。北海道出身の、小柄なまだ若い男性(44才)だ。いまは、おもに上野で野宿しているという。水商売をしていたが精神的に耐えられなくなって辞めた。仕事をなくして野宿するようになったのは、全部自分のせいだ、ほかの誰のせいでもない。同情されるようなものではないし、自立支援センターをつくるといっても、自分たちの内側から変わらなければ意味がない。そんなことを話してくれた。そしてわたしのことを、「うらやましいよ。あなたのように若くて好きなことをやっていられるなんてね」と言った。それは、まったく卑屈な言い方ではなかった。「がんばんなさいよ」。別れ際にその人は、半分歩き出しながらそう言った。
●新宿
ある日わたしは、新宿周辺で場所を変えながら野宿する人に出会った。その人は子どものころからの苦労人だった。もみあげが濃くて、人を見る視線の強い人だった。その人は、なんと言ったらいいか、とにかくものすごい人間的な魅力を秘めていた。わたしが自分の過去を話すと、わかるよ俺も母親に育てられたんだ、だからわかるよ、とうなづいた。その人は、つまようじの先に絵の具をつけて絵を描き、路上でそれを売って収入としていた。「よく人は、あなたはいいですねー絵が描けて、なんて言う。ばかやろう、ここまで描けるようになるのに、どれだけ苦労したと思うんだ。その苦労と努力があるから、だからこれを売るんだよ。この人の手を描き直すのに、何時間もかかるんだ。そんなこと、ちょっと見ただけじゃわからないかも知れないけど」と、ものすごい強い視線でわたしを見ながら言った。食べるものも着るものも、落ちてるものを拾ったりはしない。「みじめだよ、そんなの」という。「そうじゃなくて、例えば炊き出しの手伝いに参加して、それでみんなと一緒に食べるんだ。やって探せばあるんだよ、やり方が」。がむしゃらに生きてきた人だ。誰もが、やって探してできるとは限らない。その絵描きは、孤独のなかで苦労し続け、はい上がってきた、そんな人だ。それは、努力などというお上品な言葉では表現しきれないものだ。「子どもはいいね、かわいいよ、好きだ、大好きだ。動物も」。と言ったときの表情は、本当に優しかった。
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